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吉田兄弟

メインアクト 津軽三味線奏者 吉田兄弟
北海道登別市出身。父の勧めで、ともに5歳から三味線をはじめる。津軽三味線の全国大会などで頭角を現し、99年メジャーデビュー、初のアルバム「いぶき」は、民謡界では異例の10万枚を越すヒットを達成。現在までに10枚のアルバムなどを発表し、第15回日本ゴールドディスク大賞 純邦楽アルバム・オブ・ザ・イヤー、第17回日本ゴールドディスク大賞特別賞を受賞。 2003年全米デビュー以降、世界各国でコンサートを実施。また、メジャーリーグ開幕戦オープニングセレモニーでの演奏、アサヒスーパードライCMに出演するなど、国内外で幅広く活躍中。2009年1月待望のニューアルバム「Prism」、2月にコンピレーションアルバム「Another side of Yoshida Brothers」をリリース。
9月からコンサートツアー2009~2010「三味線だけの世界」がスタートする。

>> 公式サイト「吉田兄弟」
津軽三味線奏者 吉田兄弟
(インタビュアー:船井総合研究所 楠根 幸生  文:船井総合研究所 川崎 啓)
日本中の皆さんに津軽三味線の素晴らしさを伝えたい。どうやったら私たちの想いが伝わるのかを考え続けた。

― まず始めに、吉田兄弟お二人にとっての「情熱」とはどういうことでしょうか?

兄:良一郎(以下R): 私は5歳から三味線を始めて、始めたばかりの頃は凄く楽しめていたんです。でも、小学校に入学してから三味線に対して違和感を感じ始めた。周りの友達の中で、誰一人として三味線を弾いている子がいない、「三味線なんておじいちゃんやおばあちゃんが弾くものだよ」友達からそんなことを言われたりしました。
それで三味線を弾いていることに劣等感を感じるようになってしまったんです。そうしながらも続けていたのですが、高校生になった頃から三味線の素晴らしさをみんなに知ってもらいたい、日本中の皆さんに津軽三味線の素晴らしさを知ってもらいたい、そんな風に気持ちは変わっていきました。

弟:健一(以下K): 「日本中の皆さんに津軽三味線の素晴らしさを伝えたい」という想いが一番にあります。現在、テレビやCDなどで、音楽に、そして津軽三味線に触れる機会はあると思いますが、生でしか伝えられないことが必ずあります。しかも、津軽三味線などの伝統楽器では民謡などをそのまま演奏していても想いは伝わらないし、今や津軽三味線は敷居の高いものとさえ捉えられるようになってしまった。どうやったら津軽三味線の良さ、私たちの想いが伝わるのか。これは考え続けましたね。
そこで私はデビュー直前に、まずはオリジナル曲を作曲しなければ、と言う考えに至りました。そして、私たちの演奏する津軽三味線の音色と和太鼓やパーカッションなどのビートを交える形を生み出した。ビートがあれば日本だけじゃなく世界中の人に聴いてもらえる、想いを伝えることができるのではないかと考えたんです。

R: 三味線といえば『吹雪』『荒波』のようなイメージが一番に浮かびますよね(笑) 私は、それだけでなく、津軽三味線には『優しい』や『かわいい』など、沢山のイメージを表現できる可能性があると思っているんです。そして、津軽三味線がカッコいい楽器なんだということも伝えたいですね。

変わらない想い-生の音を沢山の人に聴いてもらいたい。変わってきた想い-自分達の想いを世界に伝えたい。

― 吉田兄弟お二人の『伝えたいもの』という物はいつも変わらない『何か』なのですか?それとも日々変わっているものなのでしょうか?

対談中の吉田兄弟

K: 変わってないと思います。コンサートをやって、津軽三味線を生で聴いたことのない人がこんなにも沢山いるという事実に非常に驚きました。日本の楽器なのに、世界中の人はもちろん日本の人もその音楽を聴いたことがない。
もっと津軽三味線を身近なものにして欲しい、生の音をもっと沢山の人に聴いてもらいたいと本当に思うようになった。その想いは以後も変わってはいません。

R: 変わったといえば、「規模の大きさ」は変わったでしょうね。デビューしてからすぐは「日本の皆さんに聴いて欲しい」と思いながら活動を続けていたのですが、2003年に全米デビューをしてから、日本とは全く違う反応がもらえた。
演奏中、日本とは違うところで拍手が起こったりするんですよ。この楽器は世界に通用する、という確信を得ることができた。それから、この楽器の素晴らしさ、そして自分たちの想いを世界中に伝えたいという思いに変わっていきました。

スランプに陥った3年半。けれど自分のカラーを探す為の必要な期間だった。

― お二人は一時期離れて活動をしていたようですね。その頃に不安はありませんでしたか?

K: あまりありませんでしたね。私たちは、二人が離れる前から「吉田兄弟」として活動しており、仕事をしていました。でも、兄が北海道を離れ東京に出てから、二人の活動がなくなる可能性があって、これから大変になるなという思いはありました。
兄は東京で「伴奏」に、私は北海道でオリジナル曲を書いて「セッション」にそれぞれ注力しながら活動を続けることになったんです。吉田兄弟は二人の個性があってこそ。その離れた3年半があったから、兄弟それぞれに個性が生まれて、デビューすることができ、今も活きているのだと思います。

R: 自分の力量を試すための、3年半でした。北海道ではある程度の知名度があり、仕事ができていましたが、東京では全然ダメ。民謡酒場で3年間働きながら、ソロ弾きと伴奏の両立の難しさを感じていました
。自分の道を失いかけ、今まで楽しく演奏できていたのに、それができなくなってきた。キャリアの中でも一番のスランプに陥ってましたね。
でも、その3年半は自分のカラーを探す為に本当に必要な期間でした。津軽三味線というのは、個性が必要な楽器なんです。「津軽じょんがら節」という曲にしても凄く個性が必要で、100人演奏すれば100通りの曲調になる。そんな曲なんです。

K: そういった意味で「伝統は守るものではなく、自らが作るもの」なんですよね。伝統という土台はあるが、それに胡坐をかいてはいけない。伝統を自分たちで作らなければいけないのだと強く思いますね。

自分たちで何かを生み出したい。自分は自分らしく、楽しむことを一番に考えて......。

― 吉田兄弟のお二人が辛かった時、スランプに陥った時に、自分たちを支えたものは何でしたか?

K: 「津軽三味線の可能性を自分たちで開きたい」という想いが私を強く支えたと思います。その為、沢山の奏者の人とセッションを重ねました。「自分たちで何かを生み出したい。自分たちで何かを発信しないとそれをキャッチしてくれる人さえ生まれないのだ」という気持ちは常にありましたね。

R: 私がスランプに陥った時には、「どうすれば世の中に津軽三味線を受け入れてもらえるのか」そればかり考えていました。その結果「自分が楽しめる、自分らしい演奏をすればいい」と思うようになりました。
例えば、私の演奏スタイルは体を激しく揺らしながら演奏するのですが、津軽三味線のある先生はそれではいけないのだとおっしゃいます。でも、それでは私は全く楽しめなかった。それで私はその忠告を無視することを決め、自分らしい演奏をすることを決めた。その結果、その先生は私から離れていったけど、お客さんからの反応は非常に良かったんです。「カッコいいね!感動したよ!」そんな声も届くようになりました。
それで私は「このスタイルでいいのだ。自分は自分らしく、楽しむことを一番に考えればいいのだ」という確信を得ることができたんです。

― 先生たちから離れるということは勇気のいることだったと思います。不安はありませんでしたか?

K: 私は中学校3年生の頃には先生から教わることをやめ、独学で津軽三味線を学んでいたんです。なので、とても自由に演奏することができた。
また、小さい頃から教わっていた先生も一風変わった方だったんです。先生のリサイタルに自分たちも演奏させてもらうことになっても、「袴を着るな。Tシャツで演奏したらどうか」というような方だった(笑) そんな先生から学んでいたので、私たちのような演奏スタイルも許してくれたんです。
また、先生は私たちに英語を勉強するようにずっと言っていた。君たちは海外を視野に活動して行くのだから、と常に仰ってましたね。その当時は、全然理解できないし、まさか自分たちが本当に海外で活動する日が来るとは思いもしませんでしたけれど......(笑)

日本でも海外でも、聴いてもらう為どうすればいいか、一生懸命考えた。

― 海外での活動はやはり日本と違うものでしょうか?

R: 全く違いますね。私たちの日本でのキャリアが全く通用しないので、まずはお客さんを集めるところから始まるんです。アメリカではデビュー当時、CDショップでインストアライブをしていたので、まずは歩いている人の足を止めて、聴いてもらわなきゃいけない。お客さんを自分たちの音楽にひきつけなければいけない、ではその為にどうすればいいのか、一生懸命に考えました。

K: また、現地のスタッフの対応にも驚かされましたね。もちろん海外では吉田兄弟の知名度はないので、私たちに対する最初の扱いは酷いものです。ところが私たちが演奏し終えると、先程までの対応が嘘だったかのように、180°変わるんですよ。その様子が面白かった。
だから、ライブの準備の際、楽屋代わりに狭い倉庫に案内されることもあったのですが、その度に「今に見てろよ」なんて思ってました(笑)
でも、いい演奏をするとそれだけ認めてくれるんですよ。ライブ中もいい演奏をすればスタンディングオベーションもよく起こる。
でも、日本人はシャイだからなのか、日本では滅多に起こらないんです。だから、日本のお客さんからスタンディングオベーションを貰う為にどうすればいいのか、よく考えていました。
最近のコンサートで遂にそれが実現したんですよ。本当に感動したし、涙が出るくらい嬉しかったですね。デビューから10年もかかってしまいましたが、それだけ大変なことだったんだなと改めて思いますね。

― モチベーションが低下することはないのですか?

R: 年間100公演ほどこなしているので、そんな暇さえ与えてもらわなかったですね。それにデビューしてからまもなく、テレビなどの各メディアに取り上げてもらった影響で知名度は凄く高まったんですが、技術はまだまだだった。
知名度が先行していて、自分たちの実力がそれに追いついていなかったんですよ。周りの高い期待に実力で応えることができないでいた、それが私たちにとって非常にストレスになっていたし、早く追いつきたい、追いつかなければいけないと思っていたので、常に必死でしたね。なので、モチベーションが下がったことはありませんでした。

良い演奏を行うため-常に自然体でいること(兄)、最高のパフォーマンスが発揮できるような準備と感謝の気持ちを持つこと(弟)

― 本番でいい演奏を行うために心がけていることはありますか?

K: 私は常にナチュラルです(笑) 本番前はリラックスして、よくスタッフと談笑していますよ。いつも自然体でいることを心がけていますね。

R: 私は、練習から常に本番と同様の演奏をするように心がけています。コンサートのテープを聴きながら練習したりするなど工夫しながら、常に最高のパフォーマンスが発揮できるような準備をしていますね。そのおかげで、本番にもいい具合のテンションで臨むことができ、コンサートの始めから良いパフォーマンスができるようになりました。
また、今でも「いい演奏をしよう」と思うと緊張してしまいます。なので、感謝の気持ちを持つように心がけています。「今日はこれだけのお客さんが集まってくれた。ありがたい」と思うと、肩の力がふと抜けていい演奏ができるんですよ。

対談後の吉田兄弟

― それではお二人から情熱経営フェスタにいらっしゃるお客様に対してメッセージをお願いします。

K: 「自分らしさ」は常に忘れず持ち続けて欲しいですね。それがその人の魅力だと思います。私たちも自分たちの演奏を通して沢山の人に元気を与えることができると信じていますし、岩崎さんにとってはそれが講演であるのだと思います。一人一人に個性があって、そこに「想い」あれば人を動かすことができるのです。

R: 今は「耐える時期」「我慢の時期」なのかなと思います。次に「ジャンプ」をするときのために、必ず高く飛び上がることができる時が来ると思うので、その時のために今は力をためておく時期なのではないかと思いますね。「ピンチはチャンス」ですから。


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